初恋。

 初恋。

 

 わたしは起きて薬を飲む。この薬を飲まなければ、身体が動かなくなってしまった。

  妻がわたしを心配そうに見ている。

  「体調は?」

  「あまりよくない。もう悪くなるだけのようだ」

 子どもたちは独立して、わたしは彼女と二人で暮らしてる。子どもたちは可愛いが、責任が伴う。独立したことで、やっと肩の荷がおりた。これから妻と二人でのんびり過ごすことを楽しみにしていた矢先、わたしは体調を崩した。最初はちょっとした不調と思っていたのが、坂道を転げ落ちるように一気に悪くなり、動くことが難しくなった。原因は神経と筋肉に影響をあたえる難病。完治は難しく、薬が手放さねなくなった。

 「じきに運動機能が低下して、わたしは話せなくなり、呼吸も出来なくなるだろう」

 「ええ」

 「人工呼吸器は嫌なんだ。そのときは静かに逝きたい」

 「わかったわ」

 「わたしだけ、いつのまにか歳を取ってしまったよ」

 「そうね」

 「きみはいつまでも変わらないね」

 「そんなことないわ」

 「はじめて会ったときのこと覚えてる?」

 「ええ」

 「海辺を歩いたんだ、一緒に」

 「そうだったね」

 「すごくドキドキした」

 「わたしも」

 妻は若いままだ。出会った頃と変わらない。わたしは少しを話しただけで呼吸が苦しくなってしまった。

 ピーピーピー。

 ベッドに取り付けている酸素モニターが鳴った。

 疲れたり、話しをして身体の酸素飽和度が減ると警告音が鳴る仕組みになっている。妻が心配して、わたしの手に触れる。体温や血圧、脈拍を確認しているのだろう。手を握った。陶器のように白い肌。冷たい肌さわり。

 わたしは電動式ベッドに身体をあずけた。いくら科学技術が進んだとしても、人間の寿命を延ばすことはできない。生身である限り、治療できない病気はある。生身である肉体そのものを改造をすれば、もはや人間とは言えないだろう。技術的には可能なのかもしれない。しかし、そんなに長生きしてどうするんだ?

 気がついたら海辺にいた。耳元で風の音が聞こえる。海の香り。目の前に海の景色が映った。何十年も前の海辺の景色だ。思い出の海。ここはよく妻と歩いた場所だ。海面が波打つように揺れ、太陽の光にきらめいている。遠くに見える船がゆっくりと進んでいく。懐かしい。

 今はもう化学物質に汚染されて、海に人が入れなくなっているから、この映像は過去のものだ。わたしの妻が再現した映像だろう。  

 「おどろいたよ。海の音や風や匂いまでも再現できるんだね」

 「感触フィードバック機能よ」

 「どうして、この景色を」

 「さあ――わからないわ。ただ記憶媒体に残っていたから」

 「ここは、きみと過ごした大切な場所なんだ」

 「知ってるわ。そうプログラムされているから。わたしは、あなたの奥さんの記憶を引き継いでいるのよ」

 「感情も?」

 「感情?」

 妻の思い出を持つ機械のきみと、生きていた妻との違いはなんだ? 

 わたしは言いかけてやめた。そんなことを聞いてもしょうがない。妻が側にいてくれる。それだけで十分だ。わたしには残された時間が少ない。

 「きみと出会えて本当に楽しかった。いっしょに暮らしたことも、苦労して子育てをしたことも、なにもかも新鮮だったよ」

 「わたしも、とても楽しかったわ」

 目を閉じれば思い出す。思い出が、まばゆい光のようだ。できれば、このまま妻の思い出に浸って死にたい。夢を見るように。

 「最後まで、そばにいてくれるかい?」

 「わかったわ」

 わたしは安心感に包まれて、眠りについた。

 

 意識が戻っても、目の前はぼんやりして暗かった。時間を訊くと、まだ日中。部屋の明るさの設定は問題ない。わたしは自分の視覚に問題があることに気がつく。

 「ねえ、もう目が見えなくなったよ。きみの顔が見えなくなった。わたしには、もう残りの時間が少ないみたいだ」

 「とても寂しいわ」

 「悲しまないで欲しい。わたしは生きるのに疲れたよ。きみが側にいてくれて、なによりの慰めになった。役割を十分に果たしてくれた。ありがとう」

 わたしは自分の死が迫っていることを自覚した。息が苦しい。しかし、ずいぶん前から覚悟していたのもあり、あたふたしたり辛い気持ちはなかった。どちらかというと、さっぱりした気分だ。天国でも妻と会えるような気がする。

 彼女の顔をなでる。頬に触れたら濡れているのに気がついた。涙? 泣いている? 

 わたしはおどろいた。

 「きみは、涙を流すのか?」

 「わからない。とても寂しい気持ちになったから」

 わたしは返事ができない。

 「あなたと暮らせて、本当に楽しかった。ずっと、ずっと、あなたのことを覚えている」

 プログラムされた言葉だろうか。

 それともすでに----目の前が光にあふれた。

 

 「気がついた?」

 ぼくは彼女と海辺にいた。

 身体が軽く、自由に動く。走り出したいほどの衝動を感じた。身体に力がみなぎっている。いつぶりだろうか。

 「ここは、天国……?」

 ぼくは思わず、つぶやく。

 彼女は笑う。

 「あなたには悪いと思ったけど、どうしてもあなたと一緒にいたくて、わたしと同じにしてもらったの」

 「それじゃ――ぼくは」

 「生まれ変わったのよ。あなたの希望どおりじゃなかったかもしれない。ごめんなさい」

 少し考えてみた。

 彼女から必要とされていることに気がつかなかった。彼女はただ、ぼくと一緒にいるようにプログラムされているだけだと。

 でも、もしかしたら。

 彼女もまた、ぼくと同じ気持ちなのかも。

 ぼくらがもう人間とは呼べない存在だとしても。

 悪くない。ぜんぜん。

 「ぼくと、ずっと一緒にいてくれる?」

 彼女はうなずく。そして笑う。かつて妻が見せた笑顔で。